出会い

サッカーの神様ペレ―の横はいったい誰なんだろうか? この二人は数多くの在日サッカー選手を育て上げた親子です。筆者の恩師でもあります。朝鮮大学サッカー部金セヒョン監督の当時、関東リーグ1部の早稲田大学、筑波大学、慶応大学、駒沢大学をはじめ、読売クラブ等試合を組んでくれました。筑波大学との試合のおかげで熊本大津高校サッカー部総監督とは今も連絡を取り合い、広島、東京朝鮮高校サッカー部を指導していた頃は練習試合等お世話になりました。息子のイッチョ先輩はサッカー界での人脈が広く、全国を駆け回る忙しいさなかにも悩みを聞いてくれて気力を吹き込んでくれました。亡くなられる1ヶ月前に電話があり、何かあれば俺に相談しろ!といつも気にかけてくれた闊達な姿は昨日の事のように思い浮かびます。サッカーが与えてくれた多くの出会いと学びにどのように恩返しができるのか、胸の奥で考えながら、今日も未来の選手たちと向き合っています。

 追悼 今西和男先生 ( 享年85 )

2000年5月4日、広島サッカーフェステバル懇親会で来賓席にいらした今西和男先生に是非みてもらいたい選手がいます、と突然お願いしたことを思い出しました。翌日、舟入高校のグランドに李漢宰(リ ハンジェ)のプレーを見にきてくださいました。数日後サンフレッチェ広島ユースと試合を組んでくださり、その試合で李は1ゴール1アシストをし、2対1で広島朝鮮高校が勝利しました。試合後サンフレッチェの織田さんからトップチームの練習に誘っていただきました。サンフレッチェトップチームでの練習試合、フリーキックの局面で当時キャプテンだった上村選手に「李が蹴れ!」と声をかけてもらい、直接フリーキックでゴールを決めました。その日、17歳の高校生にチャンスを与えてくれた上村選手のおかげでハンジェはプロ選手の道を手繰り寄せました。

 サンフレッチェ広島3年契約!

今西総監督は、李ハンジェは一人前の選手になるには3年かかるのでしっかり育てると言ってくださいました。李東奎(リ ドンギュ)先輩に恩返しができるのがうれしいともおっしゃっていました。契約後、北九州でのサンフレッチェ練習試合の忘れられない出来事があります。サンフレッチェメンバーとして後半から出場したハンジェがいきなりハットトリックしたのでした。それを観戦していた私が「調子に乗らないか心配だ」と話したとき、たまたま隣の席で森保さん(現日本代表監督)が聞いていました。「高先生、今は調子に乗ったって良いんです。プロの厳しい世界が待っています。それを乗り越えるのに時間が必要です」と言われました。今西総監督も2年間はレギュラーに定着するのは難しいと言われたました。その後ハンジェは入団3年目で活躍する事になりました。プロの眼は流石でした。

 恩師 李東奎(リ ドンギュ)先生の話

 今西先生と広島で最後に食事をしたのはサンフレッチェ元選手桑原さんのお店でした。スポーツ記者早川さんも一緒でした。2時間ぐらいの短い時間でしたが3人での食事は最高の思い出になりました。サッカーの話、日本サッカーのこれからの事、又李東奎先生の話、リハンジェの話、還暦祝いしてくれた在日コリアンの人たちに対する感謝の話、広島原爆投下後の話など・・・筑波大学サッカー部時代の恩師だという李東奎先輩の話はいつまでも私の心に残っています。私も縁あって李東奎先生とピョンヤンで2度会う機会に恵まれました。李先生夫妻と会食した話を今西さんが楽しそうに聞いてくださいました。
サッカー解説に新しいパソコンが必要だと聞いたので、李東奎先生にプレゼントしたことを伝えると今西先生が自分のことのように喜んでくださった笑顔が昨日のことのように思い浮かびます。
李東奎先生もまた、「今西は元気でいるのか!いつかまた会えるかな、よろしく伝えてほしい」と今西先生のことを心から気にかけておられました。お酒もたばこもしない人柄で次にピョンヤンに来るときはワールドサッカー選手の写真が掲載された雑誌を頼むと、テレビのサッカー解説に役立てると、優しい笑顔で話されてました。微力ながら私がサンフレッチェ広島総監督とピョンヤンの恩師の架け橋になり深く熱いサッカーの歴史を勉強させていただきました。日本と朝鮮の心から尊敬するサッカー界の巨匠の友情を学んだこの上なく幸せな時間でした。

   李東奎先生(2015年12月)

スポーツ記者の早川さん 

 1966年ワールドカップ、ベスト8 イタリア戦決勝ゴールをきめた朴斗翼選手(1996年ピョンヤン)

 私が生まれた1966年は、サッカー界に大きな衝撃が走った年でした。ワールドカップで朝鮮民主主義人民共和国が、強豪イタリアを破ってベスト8に進出したのです。その決勝ゴールを決めたのが、伝説のスーパースター、朴斗翼(パク・ドゥイク)選手でした。

時が流れ、私は運良く在日コリアンの代表団としてピョンヤンでのサッカー研修に参加。元北アイルランド監督のジャック氏から指導を仰ぎました。この濃密な10日間の研修こそが、現在の私のサッカー哲学の基礎となっています。

そしてこの研修中、リ・ガンホン団長の計らいによって、あの朴斗翼選手との食事会に同席するという奇跡が起きたのです。憧れのレジェンドを目の前にし、まさに夢の中にいるような時間でした。

私には、どうしても本人に確かめたい話が2つありました。意を決して、1966年W杯の歴史的一戦である「イタリア戦」、そしてベスト4をかけて戦った「ポルトガル戦」の真相について、質問をさせていただきました。

1966年イングランドW杯のレジェンドに斬り込んだ2つの質問:私が手に入れた「ピッチの真実」

当時12歳だった私は、ある「都市伝説」を信じ切っていました。それは「あの伝説の試合は、審判の誤審のせいで負けたんだ」という、ちょっぴり負け惜しみの混じった記憶です。
しかし大人になった私は、1966年W杯で世界を震撼させた北朝鮮代表の英雄、朴斗翼(パク・ドゥイク)選手本人に、直球すぎる2つの質問をぶつける機会を得たのです。

質問1:イタリアを沈めた、あの芸術的シュートは「偶然」か?

巨人を相手に、浮き球を鮮やかに右足で捉えた決勝ゴール。私は興奮気味に聞きました。「あのシュート、本当に狙ったコースだったんですか!?」

朴氏は笑顔で答えてくれました。

「当然さ!そのまま狙い通りにネットを揺らしたよ。何しろ、練習で一番得意としていた、私だけの『黄金の角度』だったからね。蹴る瞬間、ボールが吸い込まれるイメージは完璧にできていたんだ」

狙い澄ました一撃だったという本人の言葉に、私の鳥肌は止まりませんでした。奇跡ではなく、圧倒的な練習量とイメージ力の結晶だったのです。

質問2:ポルトガル戦の5失点は、審判の「大誤審」だったのか?

味をしめた私は、さらに無謀な質問を投げかけました。3点先取の天国から、3対5の地獄へと突き落とされたあの準々決勝。「エウゼビオに献上した2本のPKは、審判の判定ミスですよね!?」

私の質問に、朴氏はピッチの現実を静かに教えてくれました。

「いや、あれは誤審なんかじゃない。本気を出した『黒ヒョウ』エウゼビオは、ファウルでしか止められないほど異次元に速かったんだ。我々はポルトガルの立ち上がりの遅さを見抜いて、前半に奇襲を仕掛けて3点を先取した。ここまでは完璧だった。だが、目覚めた彼らを止める術は、当時の我々にはなかった。それがすべてさ」

掴み取った「真実」と、これからの挑戦

12歳の私が握りしめていた「審判のせいで負けた」という言い訳は、本物のレジェンドの言葉によって一瞬で吹き飛びました。
言い訳をせず、対戦相手の圧倒的な強さをリスペクトする朴氏の言葉には、実際に命懸けでグラウンドを走った者にしか出せない凄まじい重みがありました。

間違った思い込みが正された瞬間、私の中に新しい炎が灯りました。言い訳を探す暇があるなら、強者にリスペクトを払い、自分も選手育成にチャレンジする。これこそが、私がレジェンドから受け取った一番大きなパス(教訓)です。


 


在日コリアン天才サッカー選手 金光浩(2002年日韓ワールドカップ、慶尚南道)

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